平成の寅さん 見た 聞いた 書いた

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水源郷土学 風土ツーリズム

 今日は原点回帰を思わせる一日となりました。
 渋江宮司、江口司氏、有田輝男さんと、以下の文章の礎となった皆さんが勢ぞろいして、全国から集まられた学者さんと郷土学をしました。
 前回の実施時には、ブログもありませんでしたので、改めてアップしようと思います。
  ◆助成 日本財団 郷土学事業◆

水と光の大地 菊池水源村

             2005年9月10日 
地元学ネットワーク主宰 吉本哲郎

 熊本インターから北へ一時間、菊池市の市街地を通り抜け、菊池神社を右手にみながら進む。尾根の道である。尾根に沿って用水路がひかれ、家々があり、下のほうに棚田が広がっている。途中で右手に折れて菊池川を越える。するとここも尾根の道、用水と田んぼの広がる風景が続く。水源村と呼ばれる地区である。さらに尾根を進むと、用水路が離れ、畑作地帯の原地区となる。
 ここに、平成12年より村の人たちが集まり「NPOきらり水源村」をスタートさせたのは平成16年6月のことである。菊池東中学校が廃校したことにともない、跡地の活用として村の人たちがNPOをつくり管理運営してきた。

 東南の方向に鞍岳(1118.6m)その向こうは阿蘇の西外輪山、1000mほどの高さの高原である。ここに生まれた水が菊池川となって菊池渓谷を流れ、村人たちに農業用水、飲み水、生活用水を提供しながら、菊池市でいったん集まり、西南に向かい有明の海に届いている。

 水源村とは、鞍岳と阿蘇外輪山の北西にある麓、海抜200mから500mの尾根の大地にあるところ、湧き水、深井戸に飲み水を求め、川から水を引いて大地に田を開き、米をつくり暮らしてきたところ、菊池の川の深い谷に沿った尾根の大地の集落なのである。
 尾根である。遠き谷より水を尾根に沿って引いて、水なき尾根の大地に田を開いた。
 田をつくり深井戸の飲み水をつくってきた。
 尾根の大地に太陽が顔を出す。阿蘇の外輪の山越しにあがり、地平の彼方に沈む。谷間よりもはるかに光のあふれるところなのである。

 菊池水源の尾根の大地の田んぼとは、太陽の光を求めて、人の手が大規模に加わった水と光の大地なのであった。
 さらに、原地区のように山で暮らしてきたところであった。炭と薪、時には建築用の木材を都市に出して生きてきたところ。

 暮らしぶりを聞いた。
 「両親は勤め、合間のあいた時間に米とお茶、自家用の野菜をつくる。田んぼの広さは4反から5反ほど、お茶は1町6反ほど。4軒とか5軒で共同組合をつくり農業をしている。」
 昔、村の人たちの暮らしを支えた山と米、では現代の米とは何か、山とは何か、米と山にかわる仕事は何か、これからの菊池水源村の希望はどのようにつくればいいのだろうか

●現代の山とは何か、米とは何か、水神とは何か
 原地区に、天地元水神社(てんちげんすいじんじゃ)がある。元は肥前長島の荘とあるように遠く記紀神話の世界、菅原一族、河童の世界、砂鉄などにつながる渋江氏、全国の水神信仰の元である渋江氏の祭る水神社である。
 では、なぜここ菊池市水源村原地区に、天地元水神社があるのだろうか?

 熊本市在住で民俗を調べている江口司さんは語る。
「破綻が見えない由来の歴史を有する渋江家は、橘諸江を祖に奈良、伊予、肥前と紆余曲折を経て、ここ菊池にやってきた。江戸中期には天草まで乞われて天領富岡に教えにいっていた。塾に習いに来ていたのは天草の庄屋の子息たち。江戸時代後期には日田の広瀬淡窓に並び称されるほど、菊池の渋江氏は水神司祭としてよりも私塾として有名になっていた。水神を祭る渋江というよりも文教の渋江に重きをおいていたのではないか。渋江家文書によれば、そのころ水神信仰を真似し、お札を配ったりする偽者が横行しはじめる。『久留米藩水天宮宮司の真木氏は平真城村(現在の菊池郡大津町)伊勢にある村社真木神社の宮司を務めていたのだが、天地元水神社の影響下で久留米藩瀬下の水天宮の河童信仰を形成していったのだと考えられる。河童相撲考(小馬徹)』 そのように渋江氏の真似をするのがいっぱい出てきたのは間違いないであろう。 「でも、そもそも、水に対する恐れと感謝が水神信仰の基本、水は日本の基本である。菊池市水源村原地区にある原井出は、菊池川本流をせき止めたものである。また11キロもの長さと550mものトンネルを掘るという難工事でもあった。井出をつくるのに絶大な信頼を寄せたのが地元の人たち、おそらく、それが原地区への天地元水神社の移転につながる要因の一つではないだろうか。今でも井出に水神を地元の人たちはまつり大事にしている。」

 天地元水神社のある原地区は山もちであったのだろう。畑作地帯なのに多くの家がある。江戸時代は、米がお金になっていた時代、昔のお金は米と木材、森は燃料としての炭と薪をとりながらも主として換金する産物であった。また、木材は建築用として、都市に運んで販売していた。昔、山持ちとは文字道理「宝の山」の持ち主で分限者のことでもあった。

 ここ原地区は山で生きてきた村、畑で自給用の野菜、雑穀などで暮らしてきた村。しかし、江戸時代に米がお金としてあるいは税金として求められ、明治41年に阿蘇を視察した明治政府の法制局参事官・柳田国男は、後に著わす農政論集の中で阿蘇地方を視察して「水田は餘あるも米は大半売りて金に代へ、農民は玉蜀黍を常食とし居り候」と、述べている。そのような米を換金して税金として納める風景、しかし、原地区は畑作地帯である。山で暮らしてきたことがうかがわれる集落である。 これが原井出の築造、用水路の開削による大規模水田の開発ではなかったか。

 恵みをもたらすが、時には荒れ狂う自然、水・雨・川。古代から恐れおののいてきた水、それでも水を使う人たち、そこに水神がある。渋江氏とは、水使い人たちに安心を届けていたのである。
 では現代の米とは何か、山、森とは何か、渋江氏のまつる水神とは何か。

 それは、ここ水源村にあるものを探して確認し新しく組み合わせることから始まるのであろう。人が元気で、地域が元気で、貨幣経済、共同する経済、自給自足の経済という三つの経済を整え元気にしていくこと、水源村という地域のイメージをつくりあげていくこと、そこに渋江氏の水神は大きな役割を果たすとは考えられないか。
 みずから調べよ、運命はだれにでも公平に戸を叩く。しかし、調べた人しか詳しくはならない。運命が叩く音に耳を澄まし、戸をあけること、行動すること、子供や孫たちに、ここ水源村の元気と誇りを届けていくことから始めたいもの。

 元気な水源村であれ、そう願う。
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