平成の寅さん 見た 聞いた 書いた

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

【取材】現代農業 増刊2月号 1/15発売

【取材・執筆 森の新聞社 森千鶴子さん】

「僕らが今ここにいられるのは、皆さん方が、この学校を、村を守ってくれていたから…。」
いつも笑顔を絶やさない事務局長の小林和彦さん(三二)が、泣いている。

 ここは、熊本県菊池市の旧菊池東中学校の木造校舎を活かした
交流体験施設「きくちふるさと水源交流館」。
閉校から六年、このたび新たに宿泊棟、食堂棟、浴室棟が整備され、
一二月二四日に竣工祝賀会が行われた。
各地区から持ち寄られた料理を囲み、たくさんの思い出話に花を咲かせるのは、

 卒業生である水源地区の人々や、ここでたくさんの生活技術を教わり、心のよりどころとしてきた、町、村、海外の若者たち。
人々の証言から水源村の底力が見えてきた。


 地域の同意形成のために
区長会が尽力

 菊池東中学校は、昭和の大合併で菊池市となる以前は、菊池郡水源村の水源中学校であった。昭和二二年、戦後間もなく建設機械も何もない中、在校生をはじめ、村役場、村民、青年団、先生が総出で菊池川から栗石を拾い集め地つきをした。村有林の良材を切り出して、村総出で建てた木造校舎。五十三年の歴史を刻み、一時は四〇〇名いた在校生も閉校時は六七名となった。それでも当時の保護者たちの間では、「なんとか存続を」との声が根強かった。協議を重ね、菊池北中学校との統廃合の道を選び、住民の説得にあたったのは当時の区長たち。その中のひとり、赤星征一さん(六四)はこう振り返る。
「子どもが少なくなっても、ここに通わせたいという意見が大多数だった。しかし、区長で話し合って出した結論は、対等合併できるうちに、合併しようと言うこと。子どもたちの将来を考えてのことです。当時の区長には、僕も含め、小学校で分校に通い、本校に統合された経験のあるものがいた。環境に慣れるのにも、学力の差を埋めるのにも、相当な努力が必要でした。これから先の子どもは村の外の世界に出て行くのだから、たくさんの子どもたちの中で学ばせる道を選ぼうと。それからは、説得説得の毎日でした」
 閉校後は、村の拠点である母校の灯を消さないために「中学校跡地利用促進協議会」を設立。協議会も区長会を中心に構成された。
「交流館としてオープンするまでに四年。ちょっと時間はかかりすぎたかと思うけれども、なんでも区長が決めてしまうのではなくて、僕らが説得役にまわって区の同意をとりながらすすめてきた。今となってはそれがよかったのではないかと思います」
 NPO法人きらり水源村の理事長、岩崎良美さん(五九)は「村の人のすべてが賛成ということには決してならない。学校をグリーンツーリズムの拠点都市、農業や自然を学ぶ研修施設として位置づけることが決まり、NPOをつくったときにも、様々な反対意見がありました。『NPOとかつくって、なんの金儲けをするんだろうか、とか、役員報酬をもらっているのだろうとか、よそからきた人に学校をのっとられるんじゃないか、とか。会員だけで運営したらいいという意見もあったけれど、それでも区長が理事になって、地区全体で関わろうという姿勢は変えなかった』
 区長たち自身、NPOもグリーンツーリズムもはじめて聞く言葉。それでも勉強会や視察研修を重ね、自らが横文字をわかりやすく伝える翻訳者となって、住民の協力を求めていった。
 「どげんかなるたい。走りながら考えよう」。グリーンツーリズム事業の企画運営を任されたこどもアートの若き職員、柳田朱里さん(二七)、小林和彦さん(三二)らが村に住み着き、夏休みの長期キャンプ「こども村」や、月一回の親子の自然農業体験「おいしい村づくり」もはじまり、たくさんの街の子どもたち、地元のこどもたちで、学校ににぎわいが戻ってきた。国際ワークキャンプを受け入れて、外国の若者がやってきた。田植え、稲刈り、豆腐や団子作り、山の手入れまで、一緒に汗を流す子どもたち、若者たちの姿に、村の人々の意識も次第に変わっていった。

<つづきは、現代農業 増刊2月号を購入ください!>
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://kirarisuigen.blog13.fc2.com/tb.php/424-d316cdb5
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。